割り箸に学ぶ教養の在り方。

みなさんこんにちは、ふぃーにょです。

 

先日Twitterをみているとタイムラインに挙がってきていたこのツイート、

 

 

 

割り箸の材料を巡って同僚と話しをしたとのことでしたが、このツイートおよびそれに付随したところから少し思うところがあったので、忘れないうちに文章にしようと思います。

 

このツイートをみてまず思うことは(知識ゼロと仮定します)割り箸は間伐材だということ。同期の方はそれについて(知らないこと)聞くこと、理解することなく持論の完全さを確信しているということだと思います。

 

全くなにも知らない場合でも割り箸の中でも「間伐材」なら良さそうというのがこのツイートから読み取れる情報です。(本来のツイート主の主張からは外れますが・・・)

 

ここで終わってしまうと次に同じような話がたとえば現実で行われたらどうするでしょうか。「間伐材」という言葉だけは知っています。しかし、何故「間伐材」の割り箸だと環境破壊にならないかの理屈はわかりません。それでは物事をしっていることにはなりません。

 

先ほどのツイートにくっついていたリプライの一つがこれでした。

 

今の時代我々は世界一かしこい板をひとり一台は持っています。

一つの情報から気になることがあれば即座に調べることができるわけです。

この人は上述のツイートがきっかけで間伐材について理解することができました。

 

さて話は最初に戻りますが、私も間伐材という言葉に対して間引きした木材というような簡単な理解しかありませんでしたので、せっかくなので、少し調べてみようと思いました。

 

がっつり調べようと思ったわけではないので、ブラウザ上での簡単なものでしかないのですが、それでもいくつかでてきました。

 

間伐材について、多くの日本人が間違えているたったひとつのこと。間伐材=低品質ではありません。 | 西粟倉・森の学校 Online Shop

 

間伐材へのよくある誤解として、

間伐材を利用することが森林の保全につながることであったり、曲がっていたり節が多かったりと利用価値の小さい、もしくは使われずに捨てられてしまう(と思われがちな)間伐材を有効活用している

 ということを挙げられ、それに対する回答として 

 

間伐材=低品質、では決してありません。
間伐材は木材の品質をあらわす言葉ではありません。間伐とは、山全体や樹木の生育を促すことを“目的”とした、木々を間引く伐採方法のひとつでしかありません。山に生えた木を伐る方法の話でしかないのです。

としています。他にも述べられていましたがここでは割愛。

 

もちろん肯定的な側面のみではありません。

 

www.zourin.com

 

この中の話では、間伐材を利用している=環境にやさしいといったことに問題提起しています。

 

そもそも「間伐」という言葉は、山を手入れ(木を育てるために)する時の手法のことです。

植樹(木を植える)→下刈り(下草を刈る)→除伐(細くて、育ちにくい木を伐る)→間伐(きれいな木を育てるために間引きする)→皆伐(全部切る)→植栽(また木を植える)

日本の場合、一般的な杉・桧の人工林は、このような行程で木を育てていきます。

木が大きくなるにつれて、枝も伸びていきます。枝が隣の木と重なるところまでくると、基本的にそれ以上大きくなりません。その為に育ちの悪い木や曲がった木などを伐採して、隙間を空けて残った木が大きくなるようにします。これが、「間伐」です。

ですが、同じ50年生の木(一般的に家の柱になるような大きさの木)でも、山主さん(管理する人)が、その山を100年生の木を育てるために切ったら「間伐」。新しく木を植えるために切ったら「皆伐」。となります。

下線部については初めて知った情報でした。

 

山から出てきた木は、同じ50年生でも「間伐」で出てきた木は「間伐材」、「皆伐」で出てきた木は「皆伐材」ということになります。ですが、私たち(業界の人)はわざわざ「間伐材」、「皆伐材」などという言い方はしません。大切なのは、今目の前にある木がどのようなものか?自分が買いたい木か?使える木か?ということなので、呼び方は必要ないからです

なので、「間伐材=環境に優しい」というフレーズには違和感を覚えます。(むしろ大嫌い)

一般の人がイメージしている「間伐材」というのは、「未利用材(ミリヨウザイ)」といわれるものです。30年生までの小さな木のことで、今の建築関係では利用がなく、安い値段でしか取引されていません。間伐する前の段階「除伐」というときに出てきます。

これもまた新しい情報です。

そしてこの情報を踏まえて最初のツイートをみると意味合いが大きく変わってきます。

 

 

何が正しくて何が間違っているかを定義ないし、講釈を垂れる気もありません。

そもそも見たのがネットだけて、事実のすり合わせもしていないわけで。。。

 

しかし、疑問に思ったことについて、調べてみようと思うこと。

 

つまり、第一段階で日常生活の中で物事に疑問をおぼえること。

    第二段階でその物事について(多角的に)調べること。

 

これこそが簡潔にした教養の在り方だと思っています。

教養は生活を豊かにするといいますが、それらを忘れてしまうと生きているというより外的要因に生かされているといったほうが正確な気がしてしまうので、常にアンテナをはりながら生きていきたいよね。というお話し。

 

 

((知識マウントをとるときは十全に準備してからにしようね))